嫌でさえなければ。嫌な訳がない。




「……切れてるな。」
 銀と二人で生活用品を買い出しに行った先で、隣に佇む少女の口唇の端が赤く滲んでいる事に気が付いた。指摘されても解らなかったのか、銀が自身の指先で薄らと滲む患部に触れて唇をなぞった。
 効き過ぎたクーラーのせいだろうか。かさついて皹割れた唇は、その白い肌に妙に痛ましく映える。
 ふと思案して、黒は銀を見つめた。彼女が痛みを感じるのかは知らないが(無表情だとそれすらも計りにくい)、それでも放っておけば化膿もするだろう。
 しかし、彼女がそこまで自分に気を使うようにも見えない。例え呼吸困難に陥っても自分から助けを呼んだりはしないだろう。受動的な存在だからか、最悪な事態に遭遇したとしても自分の為に取り計らうような真似は恐らくしない。
 短い付き合いながら、黒は彼女達の事を勝手にそう解釈していたが、あながち間違っているようにも思えなかった。
 痛いのだろうか。
 そう尋ねた所で、まともな返事が返ってくる事はなさそうなので、敢えて口を紡いだが、実際感情のない銀に痛みはどう捉えられているのだろう。まあ、何にせよ無視するのも可哀相な為、黒は仕方なしに薬品売場へと向かう事にした。
 化粧品売場を通り過ぎて、黒は銀を引き連れて一角のコーナーへと赴く。
 シンプルな無色から、桃や蜜柑等の果物が印刷されたもの、更にはラメ入りや色付き匂いまで、リップクリームの種類はざっと見ただけでも20種はあった。銀に選ばせても良いのだが、反って酷な気もして敢えて彼女の意見は聞かなかった。と言うか、恐らく今黒が何を買おうとしているかすら彼女は理解していないのだろう。こればかりはどうしようもない為、黒の意見を通させてもらう。それくらいは認めて貰っても良いはずだ。
 オーソドックスな無色無臭が妥当かとも思ったが、何となく、年頃な女の子にそれも可哀相な気がして躊躇われる。本来、銀の年頃ならお洒落や化粧をしていても可笑しくはない。意思を持たない彼女には無意味かもしれないが、ただ、この程度の事くらいさせてやるべきだと黒は思う。薬用のリップに色が付いたところで、結局は大差ない事なのだが。
 猫は笑うだろう。黄なら呆れるか。
 何にせよ、黒の自己満足で終わるだけだ。この際エゴでも構わない。どうでも良いような気がしてきたが、黒はその中の一つを手に取った。
 レジに並びながら、黒はぐるりと店内を見回す。
 大型スーパーの店内は、日曜とあってか家族連れなども目立ち、平日よりも人は多いように感じられた。もちろんその中には恋人や新婚夫婦と思しき姿も目に映る。売場が売場なので女性が多い。その様子をさりげなく観察すれば、銀と大して年齢の変わらないであろう少女達が、傍らに設置されている新作のテスターを仕切に試していた。その姿と、右手に持っているリップクリームを見比べる。
 果たして自分は何をしているのだろう、と内心で自嘲するが、誰も解らない気遣いだと思えば少しはマシな気がした。

 銀は邪魔ならないような店内の角で立っていた。その姿が何処か寂しげに見えたのは、恐らく気のせいだろう。
「悪い、待たせた。」
 銀はふるふると首を降る。黒はその細い右手を掴み、銀を連れて人目に付き難い階段へと向かった。エレベーターが多数設置されている店内に於いて、階段を利用するような奇特な人間はいない。食品と薬品売場との間に隠れているような階段は、コインロッカーが障害物となって当然ながら人気は全くなかった。
 そこで、先程購入したリップクリームを取り出す。蓋を開ければ、微かに色付いていピンク色と微かに甘い匂いが香る。何て事はない、ただの薬用リップに過ぎなかったが、刺激の強すぎないその甘さに黒は戸惑う。不快感がないそれに、感心しつつも内心は僅かに動揺していたのかもしれない。
「少し、我慢しろ。」
 屈んで銀と同じ視線に合わせ、患部にスティックを近付けた。
 唇をなぞる。
 ただそれだけの行為なのに、何故か申し訳ないような気分になって黒は無意識のうちに閉口していた。赤く擦り切れた部分には、ゆっくりと撫でるように努めた。
「…甘い、」
 銀がゆっくりと口を開く。甘い。確かに甘い。黒はキャップを閉めて、銀に渡しながら言った。
「たまに、こうやって唇に塗ると良い。」
 そうして、持っていたスーパーの袋を持ち直した。
 不意に、先程化粧品を選んでいだ少女達の姿が脳裏を過ぎる。
「……適当に選んだから好みに合わないかもしれないが、」
「これが良い。」
 言い訳がましくそう言い淀んだら、銀は首を降って、はっきりと呟いた。
 階段から表の方に出たところで、黒はふと思い至る。
 端から見たら、寄り添う自分と銀もまた同じように恋人らしく映っているのだろうか。いや、映っていたとしても、それはあくまで大多数の中の一つに過ぎないのだが、それでも赤の他人が自分達をそう解釈しているのだとすれば、それは決して心地良いものではない。釈然としない不可解な何かに、行き場ない苛立ちを覚えても無意味だと理解している。理解しているからこそ、黒は銀の存在を未だにどう捉えるべきなのか判断に迷い、そして煩っていた。
「……帰るか。」
 銀も従ってこくん、と小さく頷く。
 右手に生活用品や食材が入ったビニール袋を、そして左手にその細い手を繋ぎ取り、あらかたの物を購入した黒は帰路に付こうと出口に向かった。人込みに逆らって、自動ドアを潜る。押し寄せる外の熱気は現実のように思えた。
 しかし、未だ甘い香りは離れない。



070831
一人で悶々する黒に萌えてます