音が聞こえる、そこから見える


 夏の暑さがとろりと残る猛暑の夜、黒と銀は連れ立って歩いていた。

 銀の煙草屋が先日の台風で床下浸水した。十字路の角にある小さな家であったため、被害はそれなりに酷いものだったらしく、流石に浸水した家に銀を一人取り残すのは危険だという黄の判断で仕方なく黒の部屋に招き入れる事になった。
 都内から外れた通りは、珍しく人通りが多い。互いに話しかける事もなく、ただ歩いていた。猛暑のお陰か知らないが、道路は昨日の惨事をものともせずに熱を放っていた。日が沈みかけて暑さも解消されているようだが、湿気で体感温度は最悪だ。
 銀は何も喋らない。当たり前の事である。
 だが、海月荘に向かう途中の交差点で、銀はふと立ち止まった。何かと思い周囲を見渡せば、左折した隣の通りに明かりが灯っており、露店や屋台が並んでいる。人の流れからして隣町で小規模な祭でも行われているのだろう。そういえば、そんな散らしが部屋に放り込まれていたような気もする。
 信号が代わっても動かずに、銀はただ前を向いている。仕方なく、黒は尋ねた。
「行きたいか。」
 当然返事はない。期待もしていなかったが。
 しかし、暫くの沈黙の後、銀は言った。
「……行っても良いの。」
 黒の意思を尊重するかのような口ぶりで、銀は許可を求めた。しかし、そこに遠回しながらも彼女の微弱な意思が介在しているように感じられ、黒は少しだけ困惑する。感情がない、なんて言われながらも此処最近の彼女は意思に近い感情(それは一般人のそれよりもかなり希薄ではあるが)を見せるようになっていた。それに対して、喜ぶべきなのかどうか黒は決め倦ねている。しかし。
 黄なら渋い顔をするかもしれないが、その興味を敢えて尊重してやるべきなのかもしれないと、何故か、そんな風に思ったのだ。


 通り一本と商店街、そしてこの地区が氏子になっているのであろう神社を貸しきって、日本の祭典は行われていた。夕刻とあってか、親子や下校途中の学生達でそれなりに賑っている。とりあえず来てみたは良いものの、特に目的もない二人は、ただその光景を眺めながら歩く。出店の賑わいや雑踏に塗れながらも、当然ながら銀の反応はない。
 そのまま商店街を抜ければ、表通りから離れた高台に古ぼけた神社があった。普段は人の出入りなど全くないであろうそれは、人の流れを吸収し活気を手に入れている。錆ついた赤塗りの鳥居をくぐり抜けた所で、黒はふと足を止め、人間が不規則に積み上げた石畳の階段を見上げる。それなりの段数がある階段は、垂れ下がった堤燈でも薄暗く歪に聳え立っている。
 黒は、銀の前に手を差し出した。
「手を、」
 言われるままに銀も手を差し出せば、黒に握られる。触れたところから、冷たい体温が広がった。
「危ないから。」
 そう言って、黒はゆっくりと歩み出す。銀も連れられるままに黒に付いていく。歩きにくい石段を、ゆっくりと確認するようにして昇り始めた。後ろから来た人が追い越していく気配がするが、黒は何も言わず銀の速度に合わせていてくれている。
「…せっかくだ、夕食は屋台で何か買って行こうか。」
 その提案に、銀は頷いて答える。
 そうして上りきった神社には、広場にいくらかの店があり、その奥の境内では賽銭やらが行われているようだった。黒は銀を連れてそこを通り過ぎ、人灯りから外れた境内の裏へと回って座らせる。日が沈んだせいか、視界は暗い。後ろから雑踏が聞こえる。前には黒の気配しかなかった。
「此処で待ってろ。」
 そう言われれば、銀はやはり頷くしか出来ない。掌から冷たい体温が消える。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。時間の感覚のない銀は暫く間何もせず座っていたが、近付く黒の気配でふと顔を上げた。黒は適当に買い込んで来たビニール袋を銀の隣に置いて、ポケットから小さい包みを取り出した。
「口、開けて。」
 言われた通りにすれば、黒の指が近付いて丸い玉のようなものを入れられた。何かと思えば、口の中に広がる砂糖の甘さ。
「…これ、」
「店の人に貰った。……これは俺から。」
 手渡されたものは、鈴の付いた根付けのようだった。手探りで形を確認すると、手の中でちりん、と小さく鳴る。猫の首に付いている鈴よりも音が少し高い。
「鈴。」
「お守りだそうだ。」
 小さく響く。その音は鼓膜から銀の神経に流れ込んだ。
「音なら解るだろう。」
 銀から黒の表情は解らない。解らないけれど、音が聞こえる。音だけが聞こえる。表の賑わいや雑踏が遠くに下がるようにして、二人は何となくそこで小さな音を鳴らし続けていたが、黒は袋をまとめて立ち上がった。
「……帰るか。」
 銀は黒の手を握った。やはり冷たい。
 表の境内の方に出れば、提灯の赤い灯で視界は広がった。その人込みを避けながら、銀の歩みに合わせて二人はゆっくりと階段を下りる。何故か手を離す事もなく、そのまま人の流れに逆らうようにして歩き出した。
 気が付けば、飴は溶けてなくなっている。


070803
衝撃の飴から捏造。