壁にかけてあった軍服は皺寄っていて、ルルーシュは思わず眉を顰めた。何故か片寄ってだらりとしたジャケットに、無性に苛立ちが込み上げる。なんでも日本の感覚には、A型は几帳面という概念があるらしく、以前スザクに「ルルーシュは変なとこでA型だね」と言われた事があるが、恐らくこういう性質を指してああ形容されたのだと思う。いやしかし「変なとこ」、というのは納得しかねるが。(それを外ならぬ枢木スザクに言われた事に、多少なりとも不快感を持った。)
嗚呼、とにかく苛立つ。
いくら軍人だからと言って、あいつはこんなくたびれたシャツを着て行こうと言うのか。彼の思考回路の中に、果たして「アイロンをかける」という動作はインプットされているのだろうか。いや、例えあったとしても、俺がやった方が十中八九出来が良い。
そう言い聞かせてスーツを手にしたとき、よくよく見れば、あるはずものがそこにはなかった。
必需品の眼鏡と愛用の裁縫セットを鞄から取り出して、ルルーシュは標的を睨みつけた。
ジャケットの袖口のカフスをひっくり返し、糸の色を確認する。いくつかの紺を取り出し、一番近いものを選び抜く。次は使い慣れた長針を針箱から引き抜いて、すっと穴を見つめた。糸を通すには乱視が進みすぎていたため、仕方なく針通しにも手をかける。菱形の中に糸を通し、二本取りで先を結んだ。確認する、標的は一つだ。正面下、幅は推定3センチ円形で四つ穴を持つ。大丈夫だ、攻略までに10分もかかりはしないだろう。睨んだまま布地に針を指し、終始無言で縫い始めた。
通して、刺して、引き抜く。ただその作業の繰り返しが、スザクのシャツと思うだけで何故か神聖な行為に思えてくる。一寸の狂いもなく仕上げてやる、と意気込めば自然手先の動きは強くなっていった。馬鹿か俺は。何処の主婦だ。
それにしても、とルルーシュは思う。
袖口は擦り切れ、襟には直りそうもない癖がついている。裾には落し切れなかった泥が所々こびりついていた。所詮軍服なんて支給品に過ぎないし服ごときに気を配る軍人もそうはいないだろうと解っていても、流石に自分の感覚としてこれは許せないものがある。シャツは洗い替えがあるからまだ良いが、ジャケットなんて洗うわけにはいかないから。
(――…逸そクリーニングに出してやろうか。)
普通に生活しているだけではここまで汚れる事はない。賭け事以外の、肉体的労働をした事がないルルーシュには仕事服がいかなるものか解らないが、それでもこれは自分の制服とは明らかに違う意図を持っている。この服を着ているスザクは確かに働いている。自分の知らないところで、自分の知らない表情を造っているのだろう。そんな事を思っても仕方ない事だが、と内心で自嘲しながらも、糸を結び目に巻き針で玉を作ってから、パチン、と鋏で糸と同時に思考を切断した。腕時計を確認すれば、18時13分。予定では11分に終わるはずだったが、時間的にはまぁまぁだ。両手で抱えて出来栄えを見つめ、ルルーシュは立ち上がる。箪笥の奥から埃の被っているであろうアイロンマットを取り出し床に轢いた。
左の腕時計を見遣れば、時刻は19時20分を指していた。思っていたよりも時間がかかってしまったが仕方ない。とぼとぼと寂しく帰路に付きながら、スザクは痛む頭に眉をしかめる。
今日は久々のオフだった。にも関わらず、休む間もなく補習に借り出され、図書館で一人虚しく格闘している己は何とも情けなかった。最初は類題を探しだし何とか解答(のように見える文字の羅列)をプリントに書き込んでいたのだが、最後の方は考える気力も残っておらず、結果それらは全て宿題となって鞄に仕舞われている。
嗚呼面倒臭い。眠い。寝たい。とにかく寝たい。学校と軍隊を行き来する生活は苦ではないが、やはり体力には限界がある。それを教師に言った所で、スザクの都合には違いないのだから仕方ないとは解っているが、もう少し譲歩とか妥協策とか免除とか優遇とか、とにかく融通を利かせてくれても良いんじゃないだろうか。それとも、学校とは未成年の集まりとは言え現実的でシビアなものだったのだろうか。まともな教育を受けそびれたスザクにはまるで解らない。
自分の部屋は古びたアパートの4階である。エレベーターなんてハイカラなものはないよ、と大家に言われた時は気にもしなかったが、今日みたいな日にはやはり技術が生み出した画期的な移動手段を求めずにはいられない。まあ今の部屋は狭くても汚くはないし、使い勝手は良いからそれなりに気に入っているけれども。そもそも切り詰めに切り詰めた特別派遣技術部に給料以上を望んではいけない。家賃を経費から出してもらっているだけでかなり贅沢な方だ。まぁ、セシルに織り入った事を聞くのも憚られたので詳しい懐事情はスザクも知らないが。
アパートの階段を昇りながら、せめて癒しがあれば良いと思った。数十万するマッサージチェアである必要はないけれど、足を十二分に伸ばせるバスタブとか、居て欲しい時に居る按摩師(できれば美人)、マイナスイオンを出す空気清浄機、いつも冷えていて目の疲れを取るアイピロー。そんなものが欲しい。それほどに疲れていた。日頃疲れなんて他人には見せないスザクだが、疲れるもんは疲れる。「疲れている」と言えば言うほどに疲れていく。
見慣れた扉の前で、鍵を手探りで取り出した。以前ルルーシュが付けてくれた、ペットボトルのお茶に付いていた黒猫のキーホルダーがぶらぶらと揺れる。スザクの所有物のほとんどはルルーシュからの回し者だ。以前誕生日に、理由は解らないが、チーズ君人形を渡された。そして、このキーホルダーもまたルルーシュシリーズの一つである。
不細工な猫だが、オマケにしては造りの良いそれはスザクの離しがたい相方だ。共に居てくれるただ一つの存在であり、そして友人との関わりを示してくれる。
キィ、と錆びた音を立て、ドアを開いた。独り身のスザクを待っていてくれるのは。
「ただいまー」
「おかえり」
待っていてくれるのは、チーズ君だけだったはずなのに。
チーズ君(人形)は口を開いた。
視界一面にチーズ色(あえて今はそう形容しよう。これはチーズ色だ。間違いない)が広がり、ふくよかな感触(しかし弾力はない)を顔面から被った。
ドアの至近距離に配置されたチーズ君に、スザクは勢いよくキスをする。それもかなりディープだろう、チーズ君の眉間には醜い皺が寄っている。もふっ、と情けない効果音を立て、激突した。
顔をずらせば、ルルーシュが無表情でチーズ君を抱えている。
何故かルルーシュは、何故かスザクの部屋で、何故かチーズ君を抱え、何故かドアの前で、何故かスザクを出迎えた。
反射的に止まった思考回路を叱咤して、スザクは問う。
「……何してるの、ルルーシュ。」
これが、精一杯だった。
錆の残る、酸性雨の被害にあえば真っ先に崩れ落ちそうな地味でボロいアパートに、ルルーシュの姿は何処か似合わない。それは経験から来るものではなく、彼の持つ皇族特有の気品によるのだろうと思う。貴族の中でも、境遇故かとりわけ自由主義で独立意識の高い奔放なルルーシュに言わせればそれらは全力で否定されるが、しかし庶民の生活の中に埋もれれば嫌でも浮き彫りになる。ちょっとした動作、言動、行動、すべてが洗練されているのだ。
「まぁ、暇だったんだ。窓からスザクの姿が見えたからな。」
サプライズだ、と言い切ってルルーシュは口許で笑った。心なしか、チーズ君の表情は得意げに見えるのは気のせいだろう。
しかし、窓からスザクを見た時から、ルルーシュは独りチーズ君を抱えてドアの前で待っていたのだろうか。その姿を想像して、スザクは小さく吹いてしまった。そう、高貴な彼が興味本位でそんな演出をするなんて、詰まらなさそうな顔に似合わず中々に可愛らしい事だ。
急に笑い出したスザクを怪訝に思ってか、ルルーシュはふと視線だけで振り返った。
「なんでもないよ。」
弁明してから、スザクは自らの部屋(ボロいくせに間取りは2LDKだ)の変化に気が付いた。汚いわけではなかったが、朝は忙しく家事全般が必然的に夜に回される事になるため、だらしない生活感が溢れかえっていた部屋が、如実に変化している。
「洗濯もしたし皿洗いもしたし、ゴミも出した。あと軍服のボタンも縫い直したんだが…。」
不意に口を噤み、逡巡するようにルルーシュは部屋を眺める。
「…少し、やりすぎだったか。」
反省しているような口ぶりに、スザクは微笑んで返した。
「なんか奥さんみたいだね、ルルーシュ。」
「良妻だろう?」
いっそ、そのまま嫁においでよ。
…なんて言える訳もなく、一瞬の妄想を軍で鍛えた自制心で振り切り、ハンガーに制服のジャケットを掛けながらスザクは言った。
「そういえば、ルルーシュ夕食は?」
「まだなんだ。」
「なら何か食べに行く?お礼に奢るよ。」
「それは良いけど…スザクは、大丈夫なのか。」
ルルーシュは急に安否を尋ねるので、スザクは振り返ってその瞳を見つめる。
「何が?」
「…少し疲れてるように見えたから。」
疲れている、という表現を他人から指摘され、スザクは内心で大きく動揺していた。軍務と勉学の無茶な両立に、誰よりも彼が一番心配していたのは解っていたが、こうして直球に言われると、どうしたら良いのか解らなくなる。
心配される事に慣れていないだけなのかもしれない。
ただ、他ならぬルルーシュに心配をかくたくないと思う反面、彼が自分の事を気に掛けてくれている事実に、スザクは少なからず安堵を覚えているのもまた事実なのだ。
「ああ、まぁ、疲れたかな。」
言葉を濁し、情けなく苦笑いしてみせてから横目でルルーシュの表情を伺った。
「寝るなら俺も帰るが…。」
「良いよ、ルルーシュも何も食べてないんだろ。」
「俺だってスザクの邪魔をしに来たわけじゃないんだ。」
「…ルルーシュ。」
互いに遠慮する事になって、スザクはふと彼の名前を呟く。
疲れなんて、特筆するような事でもなかった。
「……3分。」
「え?」
「3分だけ、待ってて。」
ソファに座るルルーシュの隣に寄って、スザクはその膝に倒れた。無理矢理、俗に言う膝枕をしてもらって抗議を言われかとも思ったが、特に不満を聞く事なく抱きすくめられた。布越しに体温がゆっくりと伝わり、スザクは心地よく瞳を閉じた。
たった3分で良いのか。
そう聞こえた気がしたが、決して3分は短くない。カップラーメンも出来るし、何処ぞのヒーローは世界も救う。180秒だけ、スザクは夢をみる。
狭いソファで、美人が空気を和らげ、冷たい掌で目元を覆い隠してくれる。足を十二分に伸ばせるバスタブとか、居て欲しい時に居る按摩師(出来れば美人)、マイナスイオンを出す空気清浄機、いつも冷えていて目の疲れを取るアイピロー、そんなものはどこにもないけれど。
重い瞳を閉じる。存在、それだけで感じられるのは。
ほつれてぼろぼろになっていた軍服に、正直、ルルーシュは言いようのない疎外感を感じたのだ。何でも知っているような顔をして、結局スザクの本質を未だに俺は知らない。あの服を着てブリタニア軍と共にあるその姿を知らないのだ。聞こうにも、スザクは己の努力や不安を全て笑顔で隠してしまうため、安易に踏み込む事も出来ない。
「スザク、」
屈んで、スザクの顔を両腕で抱える。180秒の間だけ、隠すように抱き込んだ。
何かをしてやりたいと思うのに。ルルーシュには何も出来ない。なにも。せめて生活能力のない彼のために、その擦り切れた糸を繋ぎ合わせる。
結果としては、俺は何もしてはいない。
結局のところ、俺は何には何が出来るのだろう。
ああ、もう。自棄になって、その唇に己のそれを重ね合わせやった。
ルルーシュは経験地が10あがった。
070736